開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8-126)
 当初幕府はモンゴルから襲来を受ける前に、先制攻撃をかけることを考えていた。それには兵役を整えねばならないが、時宗は大田文をよりどころに賦課すべき兵員数を割り出すことを決めた。但し、問題も発生した。幕府は想定してないようであったが所領が女性名義になっているところもあるわけで、兵員と直接結びつかないこともあった。この場合は一旦男性の管理人名義にして、求められている兵員数を割り出しているが、所有がその男性に移ってしまうと女性には戻らず、その女性は没落してしまうことになった。
元寇とは戦いが始まる前からこのような悲劇も内包していたのである。
                                   黒子、
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開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8-125)
 蒙古の国書に返事を出さなかったので、国書にある通り日本に対する武力攻撃があることを朝廷および幕府は覚悟していた。
そして朝廷は三万六千の神社および仏寺に対し異国降伏の祈祷をするよう命じた。
一方、幕府は
①前稿で述べたが、瀬戸内諸国に警戒・防衛の備えを
②九州に所領を有する御家人は速やかに現地入りして、蒙古の攻撃に備えるよう
③九州の御家人は沿岸警護につくこと
を命じた。                            黒子

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3.(1)土地所有の歴史(その8-124)
 ここからは蒙古襲来の記事になる。
日本列島が経験した対外国との戦争は西暦668年の朝鮮半島・白村江の戦いで唐の武力に敗れて以来、それから丁度600年後の1268年(文永五年)正月、太宰府に蒙古の国書を携えた高麗の使者が訪れた。蒙古は日本に通交を求めて来たのである。しかし、その国書には、通交に応じなければ出兵するという脅し付きであった。この国書に対し、返事を送るか否かで朝廷はもめたが、結局は返事をしないことに幕府も含め決した。時の執権時宗は瀬戸内海の諸国に厳重な警戒を命じた。蒙古側からみた場合、政治および軍事の初戦における要の地域と想定されると踏んだのであろう。
                                  黒子

3.(1)土地所有の歴史(その8-123)
 時頼が没しその子時宗が執権に就任した。まだ十四歳であったため、政村(義時の子)が執権に就き時宗は連署という体制でスタートした。正宗の母は毛利季光の娘であった。弘長元年(西暦1261年)四月二十三日、安達泰盛の妹、堀内殿と結婚した。時宗は十一歳、堀内殿は十歳という若いというより幼さがのこるふたりであった。
しかし、時宗は武芸に優れ、特に射芸は特筆すべきものがあった。
 父時頼が組織した「引付衆」であったが、将軍と癒着してことを構えることにならないよう廃止してしまった。そして将軍宗尊親王を
廃し、親王の子、惟康王を次の将軍に据えた。宗尊親王は将軍職剥奪に対し抵抗をしたが、多少のゴタゴタはあったもののすでに身辺には抵抗勢力が存在せずむなしく京に去った。後に宗尊親王を擁立してことを構える勢力がいなかったことを確認した時宗は親王に所領を提供した。                             黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8ー122)
 本稿では時頼が評定衆の下部機関に引付衆を創設したことに触れる。
そもそも評定衆とはなんであったのか振り返る。
頼朝が薨去し、頼家が幕府の長(将軍)になったとき、頼家の取り巻きにばかりを優遇する行動を不安視した政子が、頼家の独裁政治を停止し、幕府内および有力御家人からなる合議制を導入したが、泰時の代になり、評定衆として整備したのが始まりである。
 時頼が執権に就任し、御家人の支持を取り付けるため、、建長元年(西暦1249年)評定衆の下に引付衆を編成した。
引付とは御家人の領地訴訟を迅速かつ公正に審査することを目的とした機関のことである。引付は三つに組み分けされていた。メンバーは殆ど北条氏が占めていた。                  黒子
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