開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8-124)
 ここからは蒙古襲来の記事になる。
日本列島が経験した対外国との戦争は西暦668年の朝鮮半島・白村江の戦いで唐の武力に敗れて以来、それから丁度600年後の1268年(文永五年)正月、太宰府に蒙古の国書を携えた高麗の使者が訪れた。蒙古は日本に通交を求めて来たのである。しかし、その国書には、通交に応じなければ出兵するという脅し付きであった。この国書に対し、返事を送るか否かで朝廷はもめたが、結局は返事をしないことに幕府も含め決した。時の執権時宗は瀬戸内海の諸国に厳重な警戒を命じた。蒙古側からみた場合、政治および軍事の初戦における要の地域と想定されると踏んだのであろう。
                                  黒子
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3.(1)土地所有の歴史(その8-123)
 時頼が没しその子時宗が執権に就任した。まだ十四歳であったため、政村(義時の子)が執権に就き時宗は連署という体制でスタートした。正宗の母は毛利季光の娘であった。弘長元年(西暦1261年)四月二十三日、安達泰盛の妹、堀内殿と結婚した。時宗は十一歳、堀内殿は十歳という若いというより幼さがのこるふたりであった。
しかし、時宗は武芸に優れ、特に射芸は特筆すべきものがあった。
 父時頼が組織した「引付衆」であったが、将軍と癒着してことを構えることにならないよう廃止してしまった。そして将軍宗尊親王を
廃し、親王の子、惟康王を次の将軍に据えた。宗尊親王は将軍職剥奪に対し抵抗をしたが、多少のゴタゴタはあったもののすでに身辺には抵抗勢力が存在せずむなしく京に去った。後に宗尊親王を擁立してことを構える勢力がいなかったことを確認した時宗は親王に所領を提供した。                             黒子

開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8ー122)
 本稿では時頼が評定衆の下部機関に引付衆を創設したことに触れる。
そもそも評定衆とはなんであったのか振り返る。
頼朝が薨去し、頼家が幕府の長(将軍)になったとき、頼家の取り巻きにばかりを優遇する行動を不安視した政子が、頼家の独裁政治を停止し、幕府内および有力御家人からなる合議制を導入したが、泰時の代になり、評定衆として整備したのが始まりである。
 時頼が執権に就任し、御家人の支持を取り付けるため、、建長元年(西暦1249年)評定衆の下に引付衆を編成した。
引付とは御家人の領地訴訟を迅速かつ公正に審査することを目的とした機関のことである。引付は三つに組み分けされていた。メンバーは殆ど北条氏が占めていた。                  黒子

土地所有の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8-121)
 時頼は自分のレガシーを残すこと、そして自分の後継者を誰にするかに取り組んだ。
レガシーの方は一般に神社仏閣の建立が主流であり、時頼もそれを目指した。
当時地獄谷と呼ばれた場所を開発し、そこに元号をとって建長寺という寺を建てた。建長五年(西暦1253年)十一月である。
元号をとった寺は他に延暦寺があるが、延暦寺の大衆からの異論はでなかった。それだけ時頼の権威が髙かったものと思われる。
 時頼の次のテーマは自分の後継者のことである。長男時輔の母親はやや身分が低いということで三男とされ、正室が産んだ後の時宗が後継者として選ばれた。 
 回国伝説なども残る時頼であるが、当時流行病{(赤斑瘡)、麻疹か}にかかり、寿命を縮めたようである。37歳の若さで他界した。                                   黒子

土地所有の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8-120)
 時頼は贅沢を避け質素倹約を旨とした。
ただ、鎌倉の消費状況は加熱し、貨幣経済の浸透とともに押し買いなどの発生する状況になり、物価は高騰する傾向をみせていた。
そこで建長五年(西暦1254年)十月11日物価統制法を制定(建長六年十月十七日廃止)した。また諸家女房の装束についても贅沢が禁止された。                       黒子
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