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開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8-42)
 元仁元年七月三十日、夜になって御家人らが旗を上げ、甲冑を着て走り回るという騒動が起こったが、やがて何事もなくおさまった。しかし、政子はいっこうに事態が安定しないことを重く見て、閏七月一日、義村を呼び寄せて命じた。「私は今、若君(三寅、将来の将軍)を抱いて時房と泰時と同じ所にいる。義村もここにいなさい」。義村は辞退できなかった。この場所に祇候していた者は他に、葛西清重、中条家長、小山朝政、結城朝光、以下の宿老達で、「故将軍(源頼朝)の御恩を思い出し、同心すれば何人も蜂起などするわけがない」と言った。特に異論もなく同意が得られたとして、同閏七月三日、政子の前でこの問題に対する審議を行った。ここには老病をおして広元も出席した。審議の結果、公卿以上はむやみに罪科には処し難くその身を京都に移し、どのように処分したらよいか伺うこととし、義時の後室と光宗等については流刑とする。その他の者はたとえ一味の疑いがあっても罪を問わないことに決した。具体的な処分(朝廷が決定した処分も含む)は、一条実能は解官のうえ越前国に配流、義時の後室禅尼(義時の死後すぐ出家した)は政子の命により伊豆北条郡に下向・籠居、光宗は政所執事の解職と所領五十二カ所を没収のうえ信濃国に配流、光宗の弟朝行・光茂は鎮西に配流となった。また、これらの者以外はおかまいなしのはずであったが、一条実能の上洛に付従った罪で式部大夫源親行及び伊具馬盛重が出仕停止と所領没収に課せられた。
 生前義時は自分の後継者を誰にするか決めていなかったのであろうか。案外後継者は政村と決まっていたが、肝心の将軍候補を政子に押さえられてしまっていたので、政子の同意が得られず止む無く一条実能を次期将軍にたてることになったのではないだろうか。
義時には兄宗時がいたが、石橋山の合戦で討ち死にしており、父時政は自分の後継者に牧ノ方が生んだ義時の弟将範か、義時の二男朝時を考えていて、義時は終始庶子扱いであっ
たようだ。義時は江間殿と呼ばれることが多いが、時政は領地内の江間地区を義時に与えたことでそう呼ばれるのである。つまり北条本家から分家して、江間と名乗ることになったのである。ところが将範が十六歳で病死してしまい、さらに牧ノ方の変で時政が先妻の子供たち(義時、時房、政子等)に反撃されて失脚、北条本家を義時が奪い、あわせて執権職にも就任しているから、執権職は北条本家の家職のような扱われ方になったのである。しかし、義時が死去すると北条本家の家督を誰が継ぐのか、当然長男の泰時だと思われるが、どうもそうではないらしい。
泰時は義時と側室の阿波の局との間に生まれたが、この阿波の局の出自ははっきりしないという。政子の妹で阿野全成(あのぜんせい、源義朝と常盤御前との間に生まれ、幼名を今若といった)に嫁いだ人も阿波の局というので混同されるケースがあるという。話が少しそれたが、泰時は正室の子ではなかったので家督相続人ではなかったのである。では、家督相続人は誰であったのか。そのことについては次稿に譲る。
黒子
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開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8-41)
承久の乱後、幕府は新補率法を制定し、主として西国に守護や新補地頭を補任していったが、政子は貞応二年(西暦1223年)一月二十三日「乱後に補任した守護・地頭の所務について非法があれば報告するように」と在庁等に命じている。頼朝の時代では特に地頭にたいする抵抗が西国では強くて、当初よりも西国への地頭配置が後退したようであるから、心配であったのであろう。実際本舗地頭に比べて新補地頭の方が領主側と支配の権限をめぐって争われるケースが多かった。
元仁元年(西暦1224年)六月十三日、承久の乱を制した北条義時が死去した。六十二歳であった。幕府にとってはその功績が大であった割には葬儀は地味な印象である。多分この後持ち上がる騒動のため北条氏としては余裕がなかったのではないか。
二十六日には泰時、時房が京から鎌倉に戻ったが、二十八日政子は泰時に三寅の後見人になるよう命じている。この時点で政子は伊賀氏の陰謀を広元から聞いていた。その陰謀とは、義時に伊賀氏から嫁いだ後室(伊賀守藤原朝光の女)が自分の娘婿一条実雅を将軍にたて、実の息子である北条政村(泰時の腹違いの弟)を執権にし、自分の兄弟(光宗兄弟)を武家の統括者に据えるというものである。
この切迫した危機を乗り切るため、まず動揺しているであろう京の抑えに泰時の長男の時氏、時房の長男の時盛を急遽上洛させた。
しかし、事態は着々と進行し、同年七月五日、光宗兄弟が三浦義村宅を往還し、その後義時の後室宅に集まって、予定の行動につき決行を確認しあっている。
同七月十七日、政子は駿河局だけを伴って、義村宅に出向き、「政村と伊賀光宗等が義村のもとに出入りし、密談をしているとの噂がある。泰時を滅ぼそうとしているのか」。義村は陰謀の密談を否定したが、政子は納得せず「義時は何度も混乱を治めてきた。承久の乱で関東の運命を決したのは、天命とはいえ半ば泰時の功績である。義時の後を継いで関東の棟梁となるべきは泰時である。政村と義村は親子(政村の元服に際して義村が加冠を行っている)も同然であり、談合の疑いが無いと言えようか。政村を支えて世を乱す企てがあるのか否か、和平に導く気があるのかどうか、はっきりと申せ」とせまった。義村は言葉に窮した。まさかこの老婆を斬ることも出来ず思いめぐらした末に次のことを口にした。「政村は全く逆心はないでしょう。光宗等は考えるところがあるようです」。なんと、自分への嫌疑を晴らし政村を助けるために光宗等を犠牲にしたのだ。義村は強く制止を加えると誓ったので、政子は義村宅を後にした。
翌日、義村は泰時に会い、改めて自分の異心を否定し、光宗等に諫言を尽くしたのでとうとう帰伏したことを告げた。泰時も政村に対して全く害心が無いことを述べた。
この事件で義村の切り崩しには一定の目処がついたが伊賀氏側はこれでは収まらないであろう。しばらく動揺が続いていたはずで、政子は連日義村に督促をしていた。
                   黒子

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