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開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8-50)
前稿では義時が牧の方の変で実質幕府のトップに躍り出たことについて述べた。本稿はその続きになる。
義時の代になっても時政の有力御家人つぶしの遺伝子は引き継がれていた。
元久二年(西暦1205年)牧の方の娘婿宇都宮頼綱が謀反を企てているとして下野最大の豪族小山朝政に追討を命じた。しかし、朝政は、「親戚づきあいをしているから、追討は出来ません。」と返事をした。朝政の仲介で、頼綱は出家し、髻に恭順の意を示す誓詞を添えて提出したので討伐は中止された。義時にすれば肩すかしをくらった思いで何とも釈然としなかったに違いない。次に狙いを定めたのが三浦氏の分家にあたる和田氏であった。和田氏との合戦談は既に記したので省略するが、和田氏に与した土肥惟平が相模国山内荘を所領としており、惟平は所領没収のうえ処刑された。勝った義時はこの山内荘と美作守護を手に入れたが、この山内荘についてはいささか因縁めいた事情があるので触れておきたい。山内荘は鎌倉に隣接し、現在の行政区画でいえば鎌倉市北部と横浜市戸塚区・栄区の一部が含まれる横浜市南西部にまたがる広大な面積を持っていた。このように大規模な荘園は天皇領か摂関家領に見られるものだが、秀郷流と言われた山内首藤経俊が鎌倉雪の下に隣接する山之内の開発領主で代々源氏に仕えており、鳥羽院制下の保元の乱の前、源義朝が鎌倉に下向し、経俊の支配していた山之内を核に在庁官人を抱き込み公領を取りこんで、相手がはっきりしないが、寄進して荘園化する動きをしていた。この荘園は紆余曲折を経て長講堂領になった。経俊は立荘のさい荘官職を得たのであろう。源頼朝が挙兵した時、経俊は平家方に被官していたため頼朝の要請を断った。ところが頼朝の挙兵が成功すると、経俊は捕えられ、所領没収のうえ処刑ということになったが、経俊の母が頼朝の乳母で、その哀訴により命だけは助かった。身柄は土肥実平に預けられ、所領も実平に与えられた。その実平の孫が惟平なのである。義時はのどから手が出るほど山内荘がほしかったに違いない。なぜなら、山内荘に兵力を蓄え、いざという時にすぐに駆けつけさせることが出来るからである。いずれ三浦氏とは雌雄を決する時が来ると考えれば心強い備えである。
和田合戦の後は義時の地位も格段と強化され、他の御家人より高みの存在となったことから、義時の脅威となるものがなくなり、しばし、平和な時期が過ぎて行った。但し、決して現状に満足していたわけではなく、ある時自分の家人を御家人に格上げさせるよう実朝将軍にかけあったが、あっさり断られるといったこともあった。別件だが、和田義盛が受領になりたいので朝廷に推薦してほしいと実朝に申し出た。実朝はこの件を政子に相談したところ、政子は「右大将家は受領は源氏の者に限る(但し、北条家だけは受領を拝命していた)、と申していた。敢えてその決めごとを変えるというのであれば、おなごの申すことはない。」と言われたので、実朝は政子の権幕におそれおののいたという。つまり御家人の秩序に関しては頼朝公が決めたことをたやすく変えることは出来なかったのである。
               ―黒子―
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開発予定地の法規上のポイント

3.(1)土地所有の歴史(その8-49)
前稿までかなり重複したり、一部変更もあったが義時及びその子息並びに関連する人物、事件の経過をたどってみた。そこから義時がどのような立場で、なにを得たのか、そして義時の心の内にあった後継者は誰であったかを推理してみたい。まず義時は時政の後継者であったのかどうかを見てみよう。時政は失脚前まで後に言う執権であったが、その実態は政子の実子である実朝将軍を政子から委任されて預かり、御後見になっていただけであるから、実朝の生命が危機にさらされていることを知った政子が実朝を奪還した時点で御後見の根拠を失っている。義時は執権に就いたが実朝の親権者である政子から任命されているのであって、親から子に譲る意味での時政の後継者であるとはいえない。北条本家は時政の陰謀失敗でその権威は崩壊したに等しく、財産は残ったかもしれないが、北条氏を代表する家柄ではなくなった。鎌倉幕府の草創から頼朝公の御外戚北条氏の名は消し難く、江間義時を祖とする「新生北条氏」ととらえた方が理にかなっているのではないか。従って、新生北条氏の嫡流が「得宗」ととらえたい。
次に、北条本家が保有する権利や財産がどのように処分されたのか考えてみよう。この当時の土地の所有というのは土地そのものを所有するという発想はなく、その土地に係る「職(しき)」を通じて得られる権利を所有することを意味していた。例えば、荘園でいえば「本家職」「領家職」「預所職」「下司職」等であり、鎌倉幕府が新たな職(しき)として考え出した「地頭職」も、いわゆる「所領」であった。また武士ではあっても公領であれば「郡司職」「郷司職」「保司職」等も所領であった。本領安堵するということはこれらの「職」のうち荘園でも公領でも対象となる「職」を安堵することを意味していた。牧の方の変で失脚した時政はその日のうちに出家入道を遂げているので、財産や所領は放棄したものと思われる。仮に、出家しなくとも「大罪」を犯したので、「所領」や財産は没収されたであろう。その不名誉を回避するために、すばやく出家したのではないか。時政が所有していた権利や財産は一旦政子か義時に集められ、そののち慣例に従って相続人に配分されたであろう。義時は鎌倉幕府内における北条政権の持続的安定化を考えるならば鎌倉に接する領地を支配したいと考えるのが当然であるからそのような観点から配分したであろう。配分に当たっては時政の希望もあったであろうから、時政の邸宅であった名越邸を義時の次男朝時に譲るよう要望されたと思う。後年名越邸を譲られたことを根拠に名越流北条氏は得宗家に対し、名越流こそ北条本家であると対抗意識を持つのである。この他にも時政は幕府内で様々な役職に就いていたが、新執権の義時から解任されたと見るべきであろう。
―黒子―
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